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Encyclopedia of niime

niime温故知新 阿江美世子さんの巻

〈後編〉

2023 . 09 . 30

7年前の移転時に玉木と酒井の考え・想いのエッセンスを紙面にまとめて発行、今もなお一部改訂しながらtamaki niimeの紹介ツールとして使われ続けているフリーペーパー 「tamaki niime shinbun」。
その表紙のメインビジュアルを撮影したのも阿江さんだ。元々は染色工場で、リノベーションを施す直前の現在のtamaki niime muraの建物に佇む二人の後ろ姿を捉えた印象的な一枚。どこかで写真撮影について学んだ時期があったのだろうか?

「学んだというのは何もないんです。撮りたいものを撮るだけだし、ハイスペックなカメラも使いこなせないですし。…私、コロナ禍になった頃に東欧のスロヴェニアに半年間行ってたんです。」

いきなりそう切り出すと、見せてくれたのはスマホに納められた数々の風景写真。豊かな自然に囲まれ川が流れる小さな街の風景が、美しい絵画を観るように抜群の構図で撮影されているのが目に留まった。

「これ、普通のiPhoneで撮ってるんですよ。トリプルカメラ搭載のProとかではなくて。私はこの画角でこのサイズで…というようなセオリーは全くわからないので。あっ、きれいッ!パシッ!!の繰り返しです。ロジカルな撮影の理屈はわからない。」

計算し尽くされたように思えた数々の写真は実は瞬間瞬間に、阿江さんのヴィヴィッドな感性が捉えた風景をカメラで移し取ったものなのだった。

「良いところなんですよ、スロヴェニア。こちらの写真の白鳥、可愛いでしょ?たまたま2羽揃って泳いでくれてたから、ありがとう!って言って撮って。」

—— そもそもスロヴェニアには何で滞在を?

「2019年に旅行でスロヴェニアを訪れました。写真にも写しているブレッド湖へ行った時に、一目惚れしてしまったんです。ここに住みたい、そう思って。」

思い立ったら行動が早い阿江さん。そして現地でスロヴェニアの語学学校に3ヶ月通うことに。

「半年の間、向こうでどうやって生きていけるかを試しに行ったんです。それが2020年のはじめだったんですよ。急にコロナ禍になって、2月だったかな、大使館の方から、もう数日したら国際線が飛ばなくなります。どのくらいの期間になるかもわからないから帰国されますか?それとも滞在されますか?と連絡が来て。」

—— はい…。

「こんなタイミングで帰りたくない!そう思って、滞在します!と(笑)。なので、向こうでロックダウンを経験してきました。」

そんな危機的状況を逆に得がたい機会と捉えて、スロヴェニアに腰を据えた阿江さん。イタリアの東隣、かつてはユーゴスラヴィアに属していた人口200万人の小国でのコロナ被害はどうだったのだろうか?

「店が開かず、街中に人がいない、異様な雰囲気でしたが、基本的には落ち着いていて平和でした。ちっちゃなちっちゃな国で、四国くらいの大きさしかなく、少々閉鎖的なんですけど、それこそスロヴェニア語を数ヶ月学んで少しお店の方とやりとりができるようになってくると、すごく喜んでくださるんですよ。そんなところは日本とよく似てて、オープンに付き合うとやさしくて温厚な方がたくさんいて。」

—— 学んだスロヴェニア語を活かして、今後ビジネスでつながるとか。

「西脇とつながりたいです(笑)。」

日本の社会がどこか窮屈に感じられて20代の頃から海外志向が強かったという阿江さん。スロヴェニアから帰国した後は引き続くコロナ禍で日本に留まらざるを得なくなった。そんな状況の中、国内でも良き出会いに恵まれていることを感じ始めたという。

「あ、なんだ、場所じゃない、と。結局、日本にも素敵な方というのはたくさんいらっしゃって。私自身が自分らしく伸び伸びとお話しさせていただける人って、こんなに近くにたくさんいらっしゃるんだと思ったら、どうしても海外へ行きたいという気持ちが薄れました。日本が嫌だというのが消えた。」

tamaki niimeで働き始め、海外へ出て色々な人との出会いがあるというのが大きなモチベーションでもあったと語る阿江さんの志向は今、真逆のベクトルを描いている。

「西脇から海外へ行ける、tamaki niimeを世界に紹介できるという想いだったのが、今は逆に世界中から、こちらへ来ていただきたい、そうすごく思います。」

若い時期から抱えていた日本社会への違和感。大学卒業後初めて社会へと出た阿江さんは、幼稚園の先生として4年間勤めた時期に大きな壁にぶつかった。

「幼児教育をもとに、子どもたちが自律していける、伸び伸びと成長していけるように。“軍隊式”と呼ばれるような、あれしましょうこれしましょう、というスタイルではなくて、今日はみんなどうしたい?と、それぞれの意見を持ち合わせて、子どもたち自身がミーティングみたいに会話してじゃあ今日はこれをやろう、と決めるような時間をたくさん創れるようにという考えで教育してきた身なんですね。ですけど、最後に理事長から言われた言葉は、君はもっと大人にならないとあかん、だったんです。もちろん私も自己中なところはたくさんあるから、そこは重々承知の上で、でもそんなだったら、大人にはなりたくないなと。」

—— そこは妥協というか、マニュアルに沿ってやってくれれば良いというような意味あいだったのでしょうか?

「その時に、一般的な常識というものからは私は外れているんやな…と感じたというか。団体に馴染めないというか。なので私は個人事業主です。でも、人は大好きなんですよ。大学でもチアリーダー部のキャプテンをしてましたから。そんな風に同じような視野や考え方を共有して動けるチームは大好きで、自分が活き活きとするんですけど…。」

—— マイノリティ(少数派)であるという意識が強いということなんでしょうか?

「かも知れませんね。皆んなとうまくやりたいのに、できないんですよ。」

阿江さんの名刺のlistには 「幼児英語遊び・洋書絵本」 「旅コーディネート・通訳」 と並んで、「タイ古式マッサージ」が。

「幼稚園を退職してカナダでのワーキングホリデーから帰って来た時に、もう興味を持ったことは全部やってみたいと思って。もともと身体の構造に関心があったんですが、カナダで知り合った友人がタイのチャンマイにいて、彼女からマッサージ術を学べるところの話を聞いて。やってみた上で合うか合わないかは判断したらいいやんとまずは行ってみたんです。そしたらすごく愉しくて。戻って来てすぐ、2011年に自宅で古式マッサージを始めました。」

—— 興味を引かれたらとりあえずやってみる。改めてすごくtamaki niimeにフィットする人という印象ですね(笑)。

「英語での卸を担当させていただいてた初期の頃は、玉木さん酒井さん、スタッフさんもマッサージのお客様でした(笑)。」

海外卸からスタートして写真撮影も担当し、その頃から始まった顧客のLab見学にも対応するようになった。

「阿江さんしゃべるの上手やから案内して、とやっていたら新聞や雑誌の取材対応も。すると次は市や県など行政の方がと、どんどんと増えてゆきましたね。」

ブランドと歩調を合わせるようにそうして成長を続けていた2018年のある日のこと、突然、阿江さんは突発性難聴に襲われた。

「低音が聞こえなくなりずっと耳鳴りがし出して、幸い1ヶ月ほどで治り今は低音もしっかり聞こえています。ただ難聴と同時に半年くらいは外に出ると人の視線が気になって対人がとても辛い状態になりました。ポップアップストアが決まり仕事でタイへと向かう数ヶ月前のタイミングで…。」

飛躍的に事業が拡大し始めた時期で、2役も3役もこなし大変なこともあったけど、次々と入る連絡やたくさんの顧客とのやりとりが、それにも増して本当に愉しかった、と阿江さんは振り返る。しかし突然の病に、無念にも仕事を断念せざるを得なくなってしまった。

「それまで一緒にお仕事をさせていただいていた方々に対する申し訳なさと……それですごく苦しかったです。できたであろうことが、できなくなったから。」

回復までには数年を要したが、その間に阿江さんは多くの気づきを得たという。

「ドン底を味わうと、それまで当たり前に思っていたことが全然当たり前ではない、ただ自分の小さな世界の中で生きてきただけだったなと、視野が広がり価値観も変わった。正しいか間違ってるかなんて十人十色なこの世の中で、全てを知りつつそれでいて中立でいたら良いんやと自分で気づけた時に、肩の力が抜けたんだと思います。」

tamaki niimeを離れて1年後、2年後、3年後…節目節目で阿江さんは玉木からの電話を受け取っていた。

「こんな面白い人がいて会わせたいんだよね…とか。こちらの事情で辞めてる人間にお電話くださって。それはすごくありがたかったです。」

そして5年の雌伏の時間を経て、新たな転機もまた突然に訪れた。

「大学を卒業してからずっと、実家ではなくて母方の祖父と一緒に住んでいたんですが、すごく自律した人で、自分の好きなものを食べたいから料理も自分で、洗濯も自分でやって。なんかシェアハウスみたいな二人暮らしをしていて。すごく居心地が良かったんですけど、その祖父が今年の3月に旅立ったんです。その半年前には家族そろって祖父が行きたいと言ってた日光東照宮まで旅行して。亡くなる1ヶ月ほど前からゆっくりゆっくり枯れてゆくように、何の病気でもなく老衰という診断で最後まで家で看取って。ずっとそばにいることができたんですよね。酒井さんのお母さまの初子さんがお亡くなりになったのが昨年末で、その3ヶ月後に祖父の死があって。それも大きなきっかけでした。ずっとお声掛けいただいてたのに戻って来れなかったのが、今回また一緒にお仕事させていただきたいと思えた理由がそこにあって。」

—— はい。

「生きてるってやっぱり素晴らしいことで、そのことが当たり前になっていたんだなって。そう感じたんですよ。旅立つ数時間前に祖父がすごくしっかりした目で私たちのことを見て。
とっさに出た言葉が、『おじいちゃん!これからまたいっぱい色んなところへ遊びに行こうね。色んな国へ旅に出ようね。』
そう言ったら、うなずいてくれたんです。その約束を祖父としたからには、どうしても自分で個人事業主として立とうと。よしッ!っと思った数日後に玉木さんからまたお電話をいただいて。海外での仕事のコーディネートの依頼だったんですけど、もう一言。はい、やらせていただきます!とお返事しました。」

阿江さんの復帰を誰よりも歓び彼女を迎え入れたのは、愉しさも大変さも共有してきた、かつての仲間たちだった。

「まずは玉木さん・酒井さん、そして以前一緒だったスタッフの皆さんが阿江さ~ん!って。5年前と全く変わらない…もちろん皆さんそれぞれに色んな経験をして成長なさっているわけですが、志というか軸が全然変わらないから、ものすごく嬉しかったです。だから私も気持ちが落ち着いて…そのまま2018年と2023年がくっついたみたいな感覚なんです。」

もちろん日々新(進)化するtamaki niimeであることを阿江さんは重々理解している。

「tamaki niime muraを拝見すると、また色んな機械が入り動物さんたちが来て、メンバーも変わりと、今ちょっとずつtamaki niimeのこの5年間の成長を自分なりに咀嚼できるようにと観て学んでいるところです。でも私のマインドとしては2018年と変わらない。」

大きくしなやかに成長を続けるブランドtamaki niimeの根っこの部分は今も昔も変わらず、阿江さんの心は再びそこに共鳴し始めた。

「どんどん幹が太くなってる。枝葉が広がって行ってる。でも根幹はブレてないっていうか。」

—— お互いの根幹のところが不変だからこそ、ブランクがあってもすぐにフィットできるのだと思います。自分自身であり続け、追求し続ける。

「すべてはつながっていて。バカ正直に生きて来たことで、よかったなぁと。でもできるなら、皆んなが和をつくって手をつなげれば。全く考え方の異なる人たちであっても、皆んなで“万物”だから。生きている間は『和』というところを、私は追求していきたいです。」

—— では最後に、阿江さんのこれからについて、お願いします!

「つながってゆくご縁を大切に。そのご縁が鎌倉にありました。空間に命を吹き込む素晴らしいつくり手さん方との運命的な出逢いがあり、これから鎌倉 “星ノ夜月ノ下の地”にて、彼らと共に 衣・食・住 の無限の創造を始めます。新店舗 tamaki niime 鎌倉と西脇を繋ぎながら、世界中の方々とこの創造を体感するイメージを膨らませています。とってもたのしみです!」

Original Japanese text by Seiji Koshikawa.
English translation by Adam & Michiko Whipple.