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Encyclopedia of niime

niime温故知新 茶谷堯典の巻

〈前編〉

2023 . 11 . 05

デザイナー自らが手元に織機を置いて機を織り、想うがままに“実験”を繰り返しながら生地を創作し作品づくりをしてゆく。代表・玉木がそれまでの常識を覆し、分業の垣根を取り払い、播州織産地・西脇で始めた型破りな“モノヅクリ”。
熟慮の末、玉木は確立したその独自のクリエーションの方法論を自分ひとりの内に留めず、広くスタッフを集めてシェアし、産地とこの国のものづくりの将来をも見据え発展・継承させてゆく道を選んだ。
福井にいた頃より旧知の間柄だった玉木本人から、織機の操作とメンテナンスを託され入社した茶谷堯典(たかのり)。意気に感じて未知の分野に飛び込んだ彼だったが、慣れない“超アナログな”機械との付き合いは当初戸惑いの連続だった。
tamaki niimeの発展期にあって、前例のないものづくりのフロンティアで、試行錯誤しつつ自ら道を切り開いて行ったスタッフたちの声を聴くシリーズ「niime温故知新」、今回は内に秘めたtamaki niime愛で会社を支える茶谷の言葉に耳を傾けたい。


—— 茶谷さんがtamaki niimeに入られたきっかけは?

「玉木と酒井…義理の兄になるんですけど、に声をかけてもらって。おそらく力織機を導入したばっかりの時期です。それで、機械のメンテナンス担当として今も伊藤先生という方にお世話になっているんですけど、自社のスタッフも担えるようにということで来てくれへん?というのが始まりです。」

デザイナー玉木が自ら力織機を操って作品づくりへと乗り出し、「589」と呼ばれる最初の小さなShop&Labを構えていた約11年前に茶谷はスタッフとして加わった。現「編みチーム」の山下匡直もほぼ同時期にtamaki niimeの一員となっていた。

—— 全くハタケ違いだったとお聞きしてましたが。

「そうそう。元々僕は足場屋さんやったんで、全然やったことなかったんですけれども、行きます、って速攻で返事しましたね。」

—— なんか面白そうやったと。

「そうそう。即答でしたね。確かその日の晩に返事した記憶があります。そんな時間かけなかったですね。」

—— 入社前はどんな印象でしたか?

「なにかアパレルの世界のことをやっているというのは側で観ててわかってたんですけど、まぁ、“変わってる”なと(笑)。」

—— 二人のやってることが。

「こうゆうビジネスってあるんやなぁ、でも不思議やなぁと。以前から付き合いはあったわけですけど、何をしてるのか謎で。うん、ナゾめいた二人で。それでベルト式の力織機2台入れるからと聞いて。その時も確か観に行ったんですかね、僕。織機自体も見たことなかったんで、なんか面白いなぁと。」

—— 当時新聞報道などで地元でかなりの話題になった記憶があります。デザイナーの玉木さんが自分で機を織り出したと。

「ここに入って色々と機械のことを調べて、他の機屋さんとのお付き合いもするようになるし、そうなるとやっぱり、オカシイことしてんな、と(笑)。そこで初めてなるほどな、って腑に落ちました。あの二人やっぱり、ブッ飛んでるじゃないですか?」

—— そうですよね。。

「そもそもブッ飛んでるけど、要所要所ポイントはしっかりと掴んでいるというか。間違いないな、と。対応速度も含めて、何もかも恐ろしくスピードが速いから、うん。いいなぁ〜って。…それは一回外へ出てみて実感したんですけど。」

—— tamaki niimeを離れていた時期がありましたね。

「一度僕、抜けてみて、あ、そうゆうことか!、って思って。要は一般社会に戻ってみて、こんなにも違うのか、ってところを肌に染みるように感じましたね。」

—— そこはなんというか、tamaki niimeについての核心的なお話ですね。

「居たら分かんないんですよね。それが当たり前になっているから。実際に外に出てみて、一般的な会社に入ってみてやり取りすると…遅いし、と思って。なんや、こんなんなんや…おもんないッ!って思って(笑)。」

tamaki niimeに8年近く在籍し、“niime流”の常識に縛られない事業のあり方とスピーディでスリリングな展開に応えることが日々常態化していた茶谷にとっては、そこを離れてみた時に、他所での業務の“当たり前さ”が、物足りなく感じられたということなのだろう。

「そこで確信しましたホントに。世の中の動きって遅いッ!、って。」

—— これじゃアカン、と。

「こんなんじゃヤバイやろという(笑)。結果的にこうして戻って来れて…さらに感謝の念を持って戻って来れてる感じなんですよね。」

決して多弁ではないものの、独特の感性の鋭さと真っ直ぐで一途な性格が、訥々と語る茶谷のその言葉の端々から漂ってくる。

「いつだったか、ミーティングで玉木と言い合いみたいになって。その日に辞めたんですけど。もう勢いで。上に噛みついてしまった以上、もう引くに引けんなと。次の日には後悔しましたけどね。…ただのアホですよ。一緒に住んでた(義母の)初子さんにめっちゃ怒られましたもん。」

—— そうでしたか…。

「空白の3年間、思えばあっという間でした。」

力織機を導入し自らそれを操って製作に打ち込み、代表作となるショールを産み出し、大きな反響を得始めた後、tamaki niimeとしての方向性を熟考した玉木は、己れ一人の作家性を打ち出すのではなく、播州織の伝統と職人技術の継承をも視野に入れ、様々なスタッフを集めて事業の拡大へと舵を切った。そのタイミングで声を掛けられたのが茶谷だった。

「当時は玉木が自ら力織機で織ってたわけですけど、他にもやるべきことが多いから、そこの手を止めるわけにはいかないし。あれって付きっきりになるから。それも含んでのことだったと思うんですけど、力織機触って、って頼まれて。機械モノは好きではあったんですけど、織機ってまた違うじゃないですか。それも超アナログな機械で。最初はそれですね、わからないまま…」

日々壁にぶつかれば、現在もメンテナンスの教えを乞い先生と呼ぶ地元の機料店(繊維機械の専門店)の伊藤義忠さんに相談するか、玉木に直接訊くかの二択だったという茶谷。玉木には他の取り組みに専念してもらうべく毎日のように伊藤さんを呼んで観に来てもらっていたそうだ。
レピア織機の部品は今も手に入れられる状況だが、ヴィンテージと呼べそうなベルト式力織機となると、交換が必要となった古い部品が入手できない場合、機料店と鐵工所に依頼し特注で鋳物の部品を製作してもらうのだという。

「あれも相当古いから、一ヶ所だけ部品を新しくすると、バグるんですよ。面白いもんで、いい感じに機械みんながヘタってないと。」

—— 不具合が起こるというか…なるほど、ひとつだけ新品の部品が入った時に。

「おかしくなるんですよ。そこがホントに難しいところであり、面白いところなんですよね。」

—— なんか生きものみたいですね。

「新しい部品に替えればそれで良いかというと、そうじゃないんです。機械を触ってゆくうちにそうゆうことがわかるようになって来て。」

—— 新しい部品はだんだんと馴染んでくる感じですか?

「だんだん馴染んできます。そこは稼働した時の音で表現するから。ちょっと動きがおかしいなって時には変な音を出してるんですよ、“あの子”って。逆にわかりやすくて良いです。そうなった時にはエグい糸の切れ方とかするんで。早めに気づいてあげないと…」

—— 暴れる、みたいな(笑)?

「そうそうそうそう。」

—— ほんと、生きてるみたいですね。

「ほんとにあのベルト式力織機は超アナログですから。」

—— 2台ともそんな感じですか?

「2台それぞれにクセがあるから。触ってて全然違います。Labに入って向かって左側の子は重たくて扱いづらいというか。入念に準備して動かしてあげんと。右側の子は軽いです。今は僕が織機を担当していた頃よりもだいぶアップグレードしてますね。」

「最初は力織機をよう触れんかったですね。」という茶谷。まずは当初2台あったレピア織機から始めて操作に慣れていった。

「一度試しに動かしてみようとして、まだ玉木が『only one shawl』を織っている途中で触ったら、ガシャーン!!、…と。経糸をバッサリ切っちゃって、織れなくなっちゃって。すっごい怒られて…すごく大事な時期だったんですよ…。」

—— 操作ってやっぱり難しいんですね。。

「クセをつかめば、何となく感覚はわかってきますけどね。ボタン押したら即回るというタイプじゃなくて、補佐して一緒になって動かしてあげんとあかんから、あの子は。特に始動の時とか。人の寝起きが重たいのと同じで。」

—— むちゃ人間的ですね。

「ほんと人間的なんですよ。性格ありますもんね。」

—— そこが準備が要るってところですね。

「その方が、機嫌良く動いてくれるかなと思いながら僕はやってましたね。きれいに掃除して、油差して。ほんとに入念にしようとしたら準備だけで3、40分かかりますから。なんかトラブった時でも、その方が後悔がないし。やることやっておいた上でならしゃあないなってなるけど。後でクヨクヨ原因を考えるのって嫌じゃないですか。」

—— 動かす前にまず掃除と手入れから。

「そうですね。油が溜まってたり、たまにあるんですよ。本来そこの部品に届いてなくちゃいけないオイルホースが途中で切れてたりとか、緩んで抜けてたりとか。亀裂が入って油が漏れてる場合もありますし。」

—— へぇ〜…。

「きれいな状態にしてあげないとホースそのものが見えないじゃないですか。だから掃除しといた方が原因がわかりやすいですね。」

—— ほんと茶谷さんが入社される前の導入最初の頃は、玉木さんしかベルト式力織機は扱えなかったわけですよね。織りたい一心で勉強されたんでしょうけど、それもスゴイことですよね。

「レピア織機じゃなくて始めから力織機触ってたわけですから。僕にはそんな勇気ないなと思いましたもん。」

究極の柔らかさと心地よさをとことん追求するためには、ヴィンテージのベルト式力織機でないとこれ以上の風合いは出ない、その都度人に頼むのではなく自分で織るしかない。そう決意した玉木。無我夢中で織機と遊んでいたと当時を振り返るものの、「only one shawl」を産み出すまでの、古い織機と幾度となく対話を繰り返しながら扱いこなせるようになるまでの苦労も並大抵ではなかったことだろう。

—— ホールガーメント横編み機導入時、山下さんが最初のニット作品づくりで勝手が違って納得できるものが創れず玉木さんからもOKがもらえずに数ヶ月かかって、一斗缶にしゃがんで作業していた記憶しか残ってないと仰ってました。

「そうですね。ペンキの缶ね。しかも寒くてね。昔のLabは無茶苦茶底冷えして…僕もその時いました。お兄ちゃん(酒井)にあったかいダウンとか買ってもらって。僕の方は僕でその隣で織機回してたから。経糸が頻繁に切れた時があって。今となっては大したことない数ですけど、その頃は無茶苦茶手も遅いし、100本くらい切れたらエッ…?って呆然となってたんですよね。でも自分がやらんと誰も助けてくれないし、回らないから。」

—— それは前回の取材で阿江さんも同じようなことを仰ってましたね。ニューヨークへ行った時に、自ら動かないとtamaki niimeは世界に広がって行かないと考えるきっかけになったと。

「阿江さんも大変だったと思いますね。ニューヨークっていう新しい土地で展開していこうというなら、なおさら。…相当なプレッシャーだったと思うんですよ。玉木も厳しいし。言い訳できないし、もうやるしかないから。」

—— 当時、茶谷さんも山下さんも阿江さんも、それぞれのポジションで未知のフィールドに向き合いながら、悪戦苦闘されてたわけですよね。

「やらなしゃあなかった。ほんまにそうなんですよ。やらな前へ進まへんかったから。それを玉木に向かって切れてる糸を結んでください、っておかしいじゃないですか?自分がやるしかない。」

—— 皆さんそれぞれに、替わる人のいない責任を負っていたということですね。

「『洗い』なんかも、『589』の頃はシンクが無くてお風呂で洗ってたから。風呂場に洗濯機が2台あって、なんせ動線が良くなくて靴一回脱いで行かなくちゃならないし、かがむから姿勢がキツイし。お風呂の後に洗いをする場合があって…暑いんですよ(笑)。夏場にウール洗って…でもその状況って経験してないとわからないし…今のLabの設備の充実はありがたいことなんやで、って、ここからスタートしたスタッフにはわからないかもしれないけど、そうゆう時代があったんだよっていうのをね、知っておいてほしいなって思いますね。」

〈続く〉


織機を導入し自社で機を織り「一点モノ作品」の創作を手掛ける、現在に至るtamaki niimeの創成の頃。玉木や酒井とともに茶谷たちスタッフは、新たな独自の“モノヅクリ”の可能性を求め冒険へと乗り出した。
それは各々が意を決して、tamaki niimeにとっての未知の領域の開拓へと向かった時期と言えるだろう。その挑戦を恐れないフロンティア精神は今に息づいている。
シリーズ「niime温故知新 茶谷堯典の巻」。〈後編〉では、玉木と酒井の素顔をよく知る彼が観た二人の人間像、そして義母であった初子さんのこと、溢れるtamaki niimeへの想い…が熱を帯びて語られます。
どうぞ次回をお待ちください。

Original Japanese text by Seiji Koshikawa.
English translation by Adam & Michiko Whipple.