niime 百科
Encyclopedia of niime
niime温故知新 阿江美世子さんの巻
〈前編〉
niime温故知新 阿江美世子さんの巻
〈前編〉
〈前編〉
〈前編〉
2023 . 08 . 07
2014年からの4年間、tamaki niimeの海外における販路開拓や広報、はたまたブランドのイメージ写真撮影なども担当するなど、西脇中心部の上野から「日本のへそ」にある現在のtamaki niime muraに移行する前後の時期、ブランドの発展期を支えた阿江美世子さん。
事情により2018年に一旦会社を離れたが、新たに「coyomi」として自身の専門的なスキルを活かし個人事業を開始、5年の歳月を経て外部スタッフとしてtamaki niimeに再び舞い戻ってきた。
今回は阿江さんから訊く、tamaki niime海外進出ヒストリー秘話。彼女がニューヨークで身をもって体得したtamaki niimeの広め方とは?ブランドのあり方の根幹にも通じる大切な“気づき”を得た、貴重なエピソードが語られます。
「2011年、カナダのバンクーバーで大震災が起こったことを知ったんですよ。」
西脇で生まれ育った阿江さん。大学卒業後幼稚園の先生を4年間務めたのちに退職、海外に住んでみたいという夢を叶えるためワーキングホリデーの制度を活用、カナダに1年間暮らした。
2011年3月、日本を遠く離れた太平洋の反対側にある街で東日本大震災発生の報道に接した。衝撃を受け、帰国後自分に何が出来るのかを模索する毎日。
そんな時、西脇に住みながらそれまでまったく接点がなかったというtamaki niimeに阿江さんが出会うきっかけとなったのが、テレビのドキュメンタリー番組『LIFE~夢のカタチ~』で紹介される様子を目にしたことだった。
「こんな近くにこんな素敵な女性がいらっしゃるなんて、と。自分の志をしっかりと持って前進しておられる姿を観て、感動して。」
「自分もやりたいことを見つけてしっかりと歩んでゆこう。」そう決意し、様々なことに挑戦していたというある日、たまたま新聞の折り込みチラシでtamaki niimeの求人広告を目にした。即座に「働いてみたい。」そう思った阿江さん。さっそく履歴書を送り面接を受けた。
「以前西脇の上野にあったweaving room & stock roomの奥、アイランドキッチンの設られた部屋でスタッフの方に面接をしてもらったんですが、マフィアみたいな?サングラスをかけた酒井さんがタバコを燻らせながらそばに立ってらっしゃって。なんなんだ、この異空間は!?と (笑)。」
その頃阿江さんは某コーヒーチェーン店でアルバイトをしていたが、洗い物作業でのアルコール消毒液の影響によって手湿疹ができ、それが全身に及んだ上に顔が赤らむ症状も出ていた。
「モノづくりに携わるスタッフの募集だったので、洗濯をしたり織機周りのホコリが舞う中での仕事は肌の繊細な方には難しいのではと思う、そうスタッフの方からのお返事だったんです。ところが、パーテーションの向こう側でお仕事をしながらたまたま話を聞いてらした玉木さんが、この肌触りと風合いの良い作品を創ってお客様にお届けしているのに、肌の弱い人たちが働くことができないってどうゆうことだろう?と疑問を呈されて。」
ちょうど当時はtamaki niimeに海外からのオーダーメールが入って来始めていた頃。英語でのやりとりが可能な人材が必要とされていたタイミングだった。
「海外からの問い合わせ対応や卸を引き受けてもらえるならお願いできませんか、と玉木さんからお声掛けいただいたのが、tamaki niimeに関わり始めたきっかけです。2014年の4月でした。」
tamaki niimeに加わって数ヶ月後、酒井の交渉によって米国ニューヨークのセレクトショップ「NEPENTHES NEW YORK(ネペンテス ニューヨーク)」店内でのポッアップストア出店が決まった。
「ニューヨークへ行ってほしい、ということで。私はアパレル業界のことを何も知らなかったので、只々海外でtamaki niimeの作品を紹介出来るっていうワクワク感だけで、行ってきます!って現地へ飛んだんですけど。」
—— すごく行動がポジティブですね。
「何も知らなかったから出来ることで。でも、やってみないとわからないし。もう一人、百貨店のスタッフをされている茅野さんと一緒に行かせてもらいました。」
ショールをはじめtamaki niimeの作品を「NEPENTHES NEW YORK」で展示販売、折しもちょうどファッションウィーク(N.Y.コレクション)の期間中でもあり、店内を会場にパーティも開かれ、多くの業界関係者やデザイナーたちが居合わせたが、作品の購入やビジネスにはほとんど結びつかなかった。
名高いセレクトショップではあるものの訪れる客数も限られる中、阿江さんは時間を惜しんでニューヨークにある、目星を付けた他の店舗数店にも飛び込み、作品PRも試みたという。うち1店舗からレスポンスはあったが、取り引きまでには至らなかった。
「何も知らずに行って、ただじっとしてても決して売れるものではないし。じゃあ、どうやってtamaki niimeの作品を世界に広めてゆくか?っていうところを考える大きなきっかけになりました。」
—— 結果として得たものは大きかった、というわけですね。
「私自身のマインドが変わった。問い合わせだったりオーダーだったり、来るものに対して受け身で対応するというのではなくて、自分たちからどのようにして仕掛けてゆけるか? その視点を持つことが出来たきっかけだったと思います。」
tamaki niime作品の価値をどう伝え、どう販路開拓してゆくべきか? ニューヨークというファッションの先進地でいきなり壁にぶつかったことで、阿江さんの中で方向性は明確になった。
「新規のお店に対して広げてゆくにしても、全くtamaki niimeをご存じないところへきっと気に入ってもらえるだろうとアプローチをかけたところで、関心を持たれるわけではない。そこの波動が異なる場合に無理に、どうかお願いします、と頭を下げるようなやり方はtamaki niimeにとってふさわしいとは思えない。こんなに素敵な作品なのだから、堂々と、良いねと言ってもらえるところと、お互いにウィンウィンの関係でお取り引きをさせていただきたいと。」
そこからは海外各地に着実に販路を広げてゆき、2年後にはtamaki niime作品の取り扱い先は15ヵ国へと拡大していた。
「お客様だったりお知り合いの方だったり、tamaki niimeファンの方々を通して、ここなら良いのではと紹介してくださったお店にアプローチをかけるというように、販路のつくってゆき方を自分で体得できた。」
人との確かなつながりを介して、自然な川の流れに運ばれるように作品があちこちへと広がってゆく。tamaki niimeにとってはそんな方法論が何よりだと実感した阿江さんだった。
2017年にはロサンゼルスで日本人オーナー夫妻が経営、日本発のブランドの良品を扱う「tortoise general store(トータスジェネラルストア)」やメキシコのセレクトショップはじめ、時間をかけて信頼を構築してきた各店舗にてポップアップストアを企画した。
「現地へ行くまでに、それぞれのオーナーさんと一緒に、こんな色味が良いかと厳選に厳選を重ね、確実にお客様に届くだろう作品を吟味してポップアップを開催しました。オーナーさんが事前にすごく告知もしてくださるから、お客様も沢山来て下さって。例えばtortoiseさんだったら、tortoiseファンの常連のお客様が数多くいらっしゃるので、ショールだけでなくウェアの作品もどんどんと活発に動いて。その場でお客様が歓んでおられる表情も見せていただけたのが2017年だったなと。それまではショールと小物のオーダーのみでしたが、このポップアップストアではウェア作品も初めてお披露目することができました。」
「たとえいくら素晴らしい作品だったとしても、それだけではお客様に届かないことって多いんです。やっぱり人とのつながりがあって、ご縁があるかによって、作品が旅立って行くか行かないか、そこはすごく大きいなと感じます。創り手であるスタッフのクリエーションに敬意を持ちながら作品についてお話するのはもちろんなのですが、私自身の人間がどうであるのかが問われているとすごく感じます。」
取引先の百貨店に酒井が海外店舗でのポップアップストア開催の可能性を問い合わせてシンガポールにて実現、現地へ阿江さんが赴き、続いてタイの百貨店での催事の話へとつながったこともあった。
「そもそものきっかけは酒井さんで、そこからバトンを受け取って、私には何ができるだろうか?と考えて、シンガポールの百貨店から紹介いただき、今度は私がタイヘアプローチしたんです。担当の方とメールをやり取りしていて、タイとシンガポールとでは全く違う、シンガポールの方が購買の動きが良くて、タイではこの価格帯のものを購入できる方々は仮に日本製の品が欲しいとなったら、日本まで飛んで行ってしまうんですよ、そうおっしゃったんですが、それでも一緒に企画させていただきたいと申し入れたんです。」
酒井から受け取った海外での大切な縁を引き継ぎ、展開してゆく。阿江さんの真摯なアプローチはタイの百貨店の担当者の心を動かし行動を促した。
「すると、阿江さんだから一緒にやってみたいと今回企画を考えましたと、帰国されたタイミングでわざわざtamaki niimeに寄ってくださったんです。その時に、あ、こういうことなんだ!って実感できたというか。tamaki niimeというブランド、“母体”がありつつも、どう広げていけるか、お客様にどう愉しんでいただけるかは、それぞれ自分自身が、考え行動していかなければ発展はない、というところを気づかせていただいたと。」
—— それは…大変深いお話ですね。人との関係を通してこそ作品が伝わり広がってゆく。阿江さんの作品への「想い」が相手の方の心を動かしたわけですね。
「もちろん、作品そのもののチカラがあってつながってゆけるんですけど、人と人同士がどういう関係性であるかが、私はすごい鍵だなって。いろんな人にお会いすればするほど、そう感じました。」
作品を軸にして、様々な人との関わりから、また色々な業務を担った経験値から、tamaki niimeにおける阿江さん独自の仕事術がこうしてクリエイティヴに開花した。
「お店によっても、どれだけの熱量を持ってそのブランドに携わっておられるか、どんな風にそのお店を育てていこうとされているか…いろんな方がいらっしゃるわけですが、私としては、精魂込めて創っているメイドインジャパンの、こんなに素敵なtamaki niimeの作品に誇りを持って、同じ目線でお話ができる方とつながってゆく。それはお店さんとだけやりとりさせていただいていたならわからなかったかもしれない。百貨店の催事であったりとか、ポップアップを海外で開催して、直にお客様と関わらせていただけることで何を求めてらっしゃるかもわかるから、それら全部をひっくるめて広報もさせていただいていたので、取材される方々に想いを伝えることもできたと思います。」
tamaki niimeの作品に備わる輝きを人を介してどう伝え可能性を広げてゆくかに心血を注ぎ、自ら考え行動してきた阿江さん。
次回〈後編〉は彼女の人となりとtamaki niimeとのつながり、5年の年月を経てブランドとの関わりを再開するに至るまでの歩みに、さらに深く迫ります。どうぞご期待ください。
書き人越川誠司
2014年からの4年間、tamaki niimeの海外における販路開拓や広報、はたまたブランドのイメージ写真撮影なども担当するなど、西脇中心部の上野から「日本のへそ」にある現在のtamaki niime muraに移行する前後の時期、ブランドの発展期を支えた阿江美世子さん。
事情により2018年に一旦会社を離れたが、新たに「coyomi」として自身の専門的なスキルを活かし個人事業を開始、5年の歳月を経て外部スタッフとしてtamaki niimeに再び舞い戻ってきた。
今回は阿江さんから訊く、tamaki niime海外進出ヒストリー秘話。彼女がニューヨークで身をもって体得したtamaki niimeの広め方とは?ブランドのあり方の根幹にも通じる大切な“気づき”を得た、貴重なエピソードが語られます。
「2011年、カナダのバンクーバーで大震災が起こったことを知ったんですよ。」
西脇で生まれ育った阿江さん。大学卒業後幼稚園の先生を4年間務めたのちに退職、海外に住んでみたいという夢を叶えるためワーキングホリデーの制度を活用、カナダに1年間暮らした。
2011年3月、日本を遠く離れた太平洋の反対側にある街で東日本大震災発生の報道に接した。衝撃を受け、帰国後自分に何が出来るのかを模索する毎日。
そんな時、西脇に住みながらそれまでまったく接点がなかったというtamaki niimeに阿江さんが出会うきっかけとなったのが、テレビのドキュメンタリー番組『LIFE~夢のカタチ~』で紹介される様子を目にしたことだった。
「こんな近くにこんな素敵な女性がいらっしゃるなんて、と。自分の志をしっかりと持って前進しておられる姿を観て、感動して。」
「自分もやりたいことを見つけてしっかりと歩んでゆこう。」そう決意し、様々なことに挑戦していたというある日、たまたま新聞の折り込みチラシでtamaki niimeの求人広告を目にした。即座に「働いてみたい。」そう思った阿江さん。さっそく履歴書を送り面接を受けた。
「以前西脇の上野にあったweaving room & stock roomの奥、アイランドキッチンの設られた部屋でスタッフの方に面接をしてもらったんですが、マフィアみたいな?サングラスをかけた酒井さんがタバコを燻らせながらそばに立ってらっしゃって。なんなんだ、この異空間は!?と (笑)。」
その頃阿江さんは某コーヒーチェーン店でアルバイトをしていたが、洗い物作業でのアルコール消毒液の影響によって手湿疹ができ、それが全身に及んだ上に顔が赤らむ症状も出ていた。
「モノづくりに携わるスタッフの募集だったので、洗濯をしたり織機周りのホコリが舞う中での仕事は肌の繊細な方には難しいのではと思う、そうスタッフの方からのお返事だったんです。ところが、パーテーションの向こう側でお仕事をしながらたまたま話を聞いてらした玉木さんが、この肌触りと風合いの良い作品を創ってお客様にお届けしているのに、肌の弱い人たちが働くことができないってどうゆうことだろう?と疑問を呈されて。」
ちょうど当時はtamaki niimeに海外からのオーダーメールが入って来始めていた頃。英語でのやりとりが可能な人材が必要とされていたタイミングだった。
「海外からの問い合わせ対応や卸を引き受けてもらえるならお願いできませんか、と玉木さんからお声掛けいただいたのが、tamaki niimeに関わり始めたきっかけです。2014年の4月でした。」
tamaki niimeに加わって数ヶ月後、酒井の交渉によって米国ニューヨークのセレクトショップ「NEPENTHES NEW YORK(ネペンテス ニューヨーク)」店内でのポッアップストア出店が決まった。
「ニューヨークへ行ってほしい、ということで。私はアパレル業界のことを何も知らなかったので、只々海外でtamaki niimeの作品を紹介出来るっていうワクワク感だけで、行ってきます!って現地へ飛んだんですけど。」
—— すごく行動がポジティブですね。
「何も知らなかったから出来ることで。でも、やってみないとわからないし。もう一人、百貨店のスタッフをされている茅野さんと一緒に行かせてもらいました。」
ショールをはじめtamaki niimeの作品を「NEPENTHES NEW YORK」で展示販売、折しもちょうどファッションウィーク(N.Y.コレクション)の期間中でもあり、店内を会場にパーティも開かれ、多くの業界関係者やデザイナーたちが居合わせたが、作品の購入やビジネスにはほとんど結びつかなかった。
名高いセレクトショップではあるものの訪れる客数も限られる中、阿江さんは時間を惜しんでニューヨークにある、目星を付けた他の店舗数店にも飛び込み、作品PRも試みたという。うち1店舗からレスポンスはあったが、取り引きまでには至らなかった。
「何も知らずに行って、ただじっとしてても決して売れるものではないし。じゃあ、どうやってtamaki niimeの作品を世界に広めてゆくか?っていうところを考える大きなきっかけになりました。」
—— 結果として得たものは大きかった、というわけですね。
「私自身のマインドが変わった。問い合わせだったりオーダーだったり、来るものに対して受け身で対応するというのではなくて、自分たちからどのようにして仕掛けてゆけるか? その視点を持つことが出来たきっかけだったと思います。」
tamaki niime作品の価値をどう伝え、どう販路開拓してゆくべきか? ニューヨークというファッションの先進地でいきなり壁にぶつかったことで、阿江さんの中で方向性は明確になった。
「新規のお店に対して広げてゆくにしても、全くtamaki niimeをご存じないところへきっと気に入ってもらえるだろうとアプローチをかけたところで、関心を持たれるわけではない。そこの波動が異なる場合に無理に、どうかお願いします、と頭を下げるようなやり方はtamaki niimeにとってふさわしいとは思えない。こんなに素敵な作品なのだから、堂々と、良いねと言ってもらえるところと、お互いにウィンウィンの関係でお取り引きをさせていただきたいと。」
そこからは海外各地に着実に販路を広げてゆき、2年後にはtamaki niime作品の取り扱い先は15ヵ国へと拡大していた。
「お客様だったりお知り合いの方だったり、tamaki niimeファンの方々を通して、ここなら良いのではと紹介してくださったお店にアプローチをかけるというように、販路のつくってゆき方を自分で体得できた。」
人との確かなつながりを介して、自然な川の流れに運ばれるように作品があちこちへと広がってゆく。tamaki niimeにとってはそんな方法論が何よりだと実感した阿江さんだった。
2017年にはロサンゼルスで日本人オーナー夫妻が経営、日本発のブランドの良品を扱う「tortoise general store(トータスジェネラルストア)」やメキシコのセレクトショップはじめ、時間をかけて信頼を構築してきた各店舗にてポップアップストアを企画した。
「現地へ行くまでに、それぞれのオーナーさんと一緒に、こんな色味が良いかと厳選に厳選を重ね、確実にお客様に届くだろう作品を吟味してポップアップを開催しました。オーナーさんが事前にすごく告知もしてくださるから、お客様も沢山来て下さって。例えばtortoiseさんだったら、tortoiseファンの常連のお客様が数多くいらっしゃるので、ショールだけでなくウェアの作品もどんどんと活発に動いて。その場でお客様が歓んでおられる表情も見せていただけたのが2017年だったなと。それまではショールと小物のオーダーのみでしたが、このポップアップストアではウェア作品も初めてお披露目することができました。」
「たとえいくら素晴らしい作品だったとしても、それだけではお客様に届かないことって多いんです。やっぱり人とのつながりがあって、ご縁があるかによって、作品が旅立って行くか行かないか、そこはすごく大きいなと感じます。創り手であるスタッフのクリエーションに敬意を持ちながら作品についてお話するのはもちろんなのですが、私自身の人間がどうであるのかが問われているとすごく感じます。」
取引先の百貨店に酒井が海外店舗でのポップアップストア開催の可能性を問い合わせてシンガポールにて実現、現地へ阿江さんが赴き、続いてタイの百貨店での催事の話へとつながったこともあった。
「そもそものきっかけは酒井さんで、そこからバトンを受け取って、私には何ができるだろうか?と考えて、シンガポールの百貨店から紹介いただき、今度は私がタイヘアプローチしたんです。担当の方とメールをやり取りしていて、タイとシンガポールとでは全く違う、シンガポールの方が購買の動きが良くて、タイではこの価格帯のものを購入できる方々は仮に日本製の品が欲しいとなったら、日本まで飛んで行ってしまうんですよ、そうおっしゃったんですが、それでも一緒に企画させていただきたいと申し入れたんです。」
酒井から受け取った海外での大切な縁を引き継ぎ、展開してゆく。阿江さんの真摯なアプローチはタイの百貨店の担当者の心を動かし行動を促した。
「すると、阿江さんだから一緒にやってみたいと今回企画を考えましたと、帰国されたタイミングでわざわざtamaki niimeに寄ってくださったんです。その時に、あ、こういうことなんだ!って実感できたというか。tamaki niimeというブランド、“母体”がありつつも、どう広げていけるか、お客様にどう愉しんでいただけるかは、それぞれ自分自身が、考え行動していかなければ発展はない、というところを気づかせていただいたと。」
—— それは…大変深いお話ですね。人との関係を通してこそ作品が伝わり広がってゆく。阿江さんの作品への「想い」が相手の方の心を動かしたわけですね。
「もちろん、作品そのもののチカラがあってつながってゆけるんですけど、人と人同士がどういう関係性であるかが、私はすごい鍵だなって。いろんな人にお会いすればするほど、そう感じました。」
作品を軸にして、様々な人との関わりから、また色々な業務を担った経験値から、tamaki niimeにおける阿江さん独自の仕事術がこうしてクリエイティヴに開花した。
「お店によっても、どれだけの熱量を持ってそのブランドに携わっておられるか、どんな風にそのお店を育てていこうとされているか…いろんな方がいらっしゃるわけですが、私としては、精魂込めて創っているメイドインジャパンの、こんなに素敵なtamaki niimeの作品に誇りを持って、同じ目線でお話ができる方とつながってゆく。それはお店さんとだけやりとりさせていただいていたならわからなかったかもしれない。百貨店の催事であったりとか、ポップアップを海外で開催して、直にお客様と関わらせていただけることで何を求めてらっしゃるかもわかるから、それら全部をひっくるめて広報もさせていただいていたので、取材される方々に想いを伝えることもできたと思います。」
tamaki niimeの作品に備わる輝きを人を介してどう伝え可能性を広げてゆくかに心血を注ぎ、自ら考え行動してきた阿江さん。
次回〈後編〉は彼女の人となりとtamaki niimeとのつながり、5年の年月を経てブランドとの関わりを再開するに至るまでの歩みに、さらに深く迫ります。どうぞご期待ください。
Original Japanese text by Seiji Koshikawa.
English translation by Adam & Michiko Whipple.