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藤本×石塚 tamaki niimeと暮らしの日常を語る。〈前編〉
藤本×石塚 tamaki niimeと暮らしの日常を語る。〈前編〉

2025 . 12 . 21
藤本隆太×石塚真奈。ともにtamaki niimeのスタッフとして、また家庭を持ち、子どもたちを育むパートナーとしての日々を送る二人の5年ぶりの対談。
それは、10月21日・新月の日、niime村の公民館=「新雌邸」にて、参加者の方々や社長・玉木も交えてのお話し会として実現した。二人によるトークは、共にしてきた約10年という時間を振り返りながら、tamaki niimeという特異で唯一無二なブランドの深い理解をもとに、仕事と暮らしの日常を語り合う、和やかで親密なひとときとなった。
ーまずは入社の頃のお話から。
石塚「私は学生時代にtamaki niimeでインターンの経験をしてから2015年4月に新卒で入りました。その頃は今よりはコンパクトな体制で、「織り」だけでなく「洗い」からショールのタグ付けまで、基本的には皆んなでやろう、というスタンスだったので、止まらない、身体を目一杯使って働いてましたね。夢中で動いてた。」
藤本「2016年に入社しました。最初に「洗い」というお洗濯の工程を一年くらいずっとやってたんですよ。次に「織チーム」に入って、その後はひとつのことを専門でというのではなく、その時に応じて役割が変遷して行ってる感じですね。」
ーその頃は茶谷さんも含めた3人体制だったんですね、「織チーム」は。
藤本「僕が入る前は石塚さんと茶谷さん二人で回してて。」
ー当時、藤本さんの目には石塚さんが仕事を過剰に抱え込んでいるように映ったので、分担しようよと提案したんですが、そこからお二人の意見の対立、バトルが始まったという。
藤本「そうですね。大変な仕事を集中してやってるというのは観てて思って、口ではあれこれ言えるんですけど、スキルがあるかどうかはまた別の話だから、説得力がないですよね。当時を振り返った時に、良かれと思って言ってるんだけど、ありがた迷惑な部分もあっただろうなとも思うし。でも、何か出来ることはないだろうか?と探してたというか。」
ー以前勤めておられたアパレル商社で得たセオリーがtamaki niimeでは通用しないところがあったわけですね。
藤本「やっぱり自分が経験してないところのやり方というのがこの会社には詰まってたなと。衝撃を受けた実感が今もあるし。自分は何かしらの経験を積んでここに来てるわけだけど、それでは上手く行かない部分というのがあるんだな、というのを仕事をしながら学んだ気がします。」
ー常識を覆されたと…。
藤本「一番はやっぱり、”ライブ感”。自分たちが今こう思ったものをこうしよう!、というスピード感というのは他所では出来ないことだし、そこに自分をちゃんと寄せて行く作業というのが最初の1~2年だったのかなと思うし、彼女は元々そこを体感として会得しながらやって来てるわけだから、そのやり方に自分が近づいていかないと問題解決がし辛いし、やれないなと。そこが独特な感覚を感じたところですね。」
ー石塚さん的には当時どうでしたか?
石塚「えっとね。そんなことをあれこれ考えてる暇はなかった(笑)。」
ー考えるより先に動くみたいな(笑)。
石塚「とりあえず、ライブに今要るモノとか、提案したいモノをその日その日に挙げてゆく。で、織り上がったモノを洗って次の日にはもう店頭に並べたいから。当時はまだonline shopもなくて、その”ライブ感”を大事にやってたので。」
ーなるほど…キーワードは”ライブ感”。
石塚「なのに、そこに一般的なアパレル商社のやり方を提案されると…今、それを求めてないんだッ!って(笑)。そこの擦り合わせが難しくて…衝突というかバトルが始まってましたねえ。」
藤本「悪いとは思ってないんですよ。そういう風にちゃんと意見を言っていかないと、擦り合わせられなかったから。それは必要だなと。」
石塚「うん。色んな考え方をね、会得するっていうのは大事だったから。実際、いい刺激になって、今となっては、よかったかなって思う。仕事の優先順位を勝手に決めるから、当時はいいと思ってなかったけど(笑)。」
ーそんなバトルを経てお互いの理解も進んで(笑)。
石塚「当時は、これどう思います?みたいなディスカッションを社長以外とは出来てなくて。そういう意味では、スタッフ間で作品づくりを深めていくみたいなことを、(藤本とは)私の中ではすごくやりやすかったというか。なんか言ったら意見が返ってくる。良い悪いだけじゃなくて、ここをこうしたらいいよね?っていう次に繋がる話が出来る相手だったので。」
ーなるほど。そこからプライベートな部分でも一緒になられるわけですが、その辺のいきさつというか馴れ初めというのは、2018年11月の「niime百科」バックナンバーをお読みいただくとして。次の2020年9月のトーク記事を再読して面白かったのは、ご家庭で赤ちゃんが起きている間は世話をしたりお二人の会話もわが子の事なんですが、寝静まったら自然とtamaki niimeの話になるという、公私の区別なくシームレスに話題が切り替わっていくというところだったんですが。
藤本「今も変わってないですね。」
石塚「変わってない。さっきまでもずっと…子どもの運動会の最中でさえtamaki niimeの話してました、はい(笑)。」
ーそこはもうお二人の間で自然体で出来てるというか。
石塚「それが日常なので。切り離そうとも思ってないし。なんて言うか、すごく自分たちの中にあるから。」
藤本「ずっと仕事と生活が一緒になってるような感じだと思います。」
ー育児というのは大きなテーマだと思うんですけど、産休後会社に復帰された頃はどうでしたか?仕事との両立という面では。
石塚「まずtamaki niimeって、毎日めまぐるしく変わるんですよ。すごく変化のある会社なので、一年のブランクによって私が得ておかないといけない情報がもうすごくたくさんあって。それを追っかけるのと、あとコロナになってたのと、online shopが始まっている…環境がガラリと変わってスタッフもたくさん入っていて、一緒に出来る仲間が増えているなというのは現場ですごく感じましたね。」
ーコロナの危機的状況を皆んなで乗り越えたというのも会社として大きかったと思うんですが。
石塚「あの時は会社全体が違う空気感で。出社したら社長が朝一番にミシンやってるんですよ。入り口でマスクを縫ってるという。」
ーそれはもう…気持ちが奮い立たざるを得ないという。
石塚「はい。やっぱこう、分業ってゆうか、チームに分かれて色んなことを手掛けるってゆうのがウチの特徴かなって思うんですけど、あの時のように皆んなでひとつになってやろう、ってゆうのはね…得難い感じでしたね。」
ーshop&labの初期の頃には色んなポジションを担当されていた石塚さんならではというか、各チームの連動を考えての「繋ぎ役」的な役割についてはどうでしたか?
石塚「あるチームがひとつのことに必死になってると…例えば在庫が偏っちゃうとか、そんなところが観れてなくて、”気づき“の声掛けをしてましたね。皆んな必死になり過ぎて、バトンパスが、隣りを見れてなくて。お互いを思いやれてないところがちらりとあって、一歩引いたらもう少し分担してやれるところがあるのに、と言った覚えがありますね。必死になってる時ってなかなか助けて、って言えない。困ってる人がいる時に声を掛け合うことをしなきゃいけないなとその時は思いましたね。」
藤本「この会社は繋がっていかないと良いモノづくりができないから。すべての工程が出来るわけだけど、皆んなで繋がらないと、良い作品にはならないということなんだろうなと。」
石塚「良い色がないと良い生地にはならないし、良いカタチに生地をしないと、良い作品にはならないから。その連動感がすごく大事なのかなと思ってますね。」
ー素晴らしいお話ですね。
石塚「新卒以来十何年ここなので、tamaki niime以外の製作体制って全然知らなくて。調べれば色々観ることは出来るんでしょうけど、播州織の世界でもそうかもでしょうけど、やっぱり、分業によってこの生地誰が織っているのかわからないってことはあると思うんです。でも私たちはタイムリーにすぐ隣りで感じられる。その作品の色を目にしただけで創り手の顔が浮かぶから、どんな想いでやってるというのを、すごくバトンパスしてるな、と感じますね。」
ーう~ん、なるほど…。では、藤本さんにお聞きしたいんですが、「織チーム」にいながら広報の仕事もされるようになったわけですね。
藤本「もう2年目からですね。スタッフそれぞれが皆んなの前で何かプレゼンをするという社内企画があって、5分くらいでスピーチしなさいと。で、それが終わったら呼び出されて、広報やれと。」
石塚(笑)。
藤本「まだその段階では会社のことをよくはわからないわけですよね、成り立ちも知らないし。自分がやってきた範囲のことしかわからない状態だったけど、僕はモノづくりがしたいという想いもあったから、広報として何が出来るんだろうなって考えながらスタートしたのが、最初にインタビューしてもらった2018年の頃ですね。」
ー以前藤本さんにインタビューした時の私の印象は、自分がどう動けば良いのか、tamaki niimeでの自分の立ち位置を熟考されている、自分を客観視出来る人だなぁ、と。そう思ったんですよ。
石塚「そうですよね。客観視出来るよね。」
藤本「そうですね。創りたいなという想いがあって、「織チーム」に配属してもらって、モノづくりをさせていただいて。そのモノづくりもデザイン的な方向と職人的なアプローチとがあって。両方出来たら良いんでしょうけど、そこまでスーパーマンじゃないんだろうな、と考えた時に広報の仕事も入ってきて、全部を100%でというのは厳しいだろうと思ったんですよ。じゃあ、自分がやれることってどれなんだろう?って話で、出来ることは全力でもちろんやるけど、自分がこの会社で出来る、一番やんなきゃいけないこととか、自分だったらこの会社に何を持ち込めるだろうか?というのを考えている日々というか。」
ーええ。
藤本「だから、ゴールみたいなところがどんどん自分の中でも変わっていってて。目標をその時々で色々と考えて修正を施しながらやっていかないと。求められてるところがあるならそれを達成しないといけないなと思うし、そのあたりは今自分がやりたいことと、会社に求められていることを探さないといかんな、とはずっと思ってましたね。勝手に何か出来るわけじゃないので、自分がどこを目指すのか?というのは今もずっと考えてますね。」
石塚「うんうん。」
ーtamaki niimeならではの方針というか…これも以前のインタビューで石塚さんの素晴らしい言葉があるんですが、「基本的にダメって言われないので。やってみたら、って言われるので、色んなことに手を出して(笑)。何というか、“可能性を止めない”ので。だからこそ、こっちもやり甲斐がある」と。それを受けて藤本さんの方からも、「何かやりたいって声をあげたら、あ、やっていいよ、と。だったら自分で考えて動いた方が僕は楽しいんで」という、お話がありましたけれども。
石塚「やってみないとわからない…ってゆうのは、なんだろうな?、ホントに子どもゴコロを忘れないってゆうか、そこは社長は絶対に止めないから。」
ーはい。
石塚「モノづくりする側の話でゆうと、これまで絵を描いてきた子だとか、何か創作をしてきた子、服づくりをしてきた子…色んなスタッフがいるんだけど、もちろん全く畑違いのところから来ている子もいて。生地を織るとか作品をカタチにするというのは、やったことのない人からしたら想像がまだ出来ないことは、本当にやってみないと自分の中に落ちない。tamaki niimeは、だからこんな生地を創ってるんだよとかこうゆうカタチにしてるんだよ、ってところまでを、本当に本人が理解しないと次のステップに行けないから。社長はやってみたら?ってことは絶対言ってくれる。でもそれを踏まえて次にどうするか?までがセットなので、そこまでをスタッフ個人としてもチームとしても、話し合いながら、ひとつのモノを創っていくってゆう感覚があるかなぁ。今もチャレンジが続いてますけど。」
ー素晴らしいですね。“niimeイズム”の語り人といいましょうか。
玉木「語っていただきたい。」
ーこの5年間の間にまたtamaki niimeって“激変”してると思うんですよね。
石塚「はい、もう激変で(笑)。」
ー動物ちゃんも増えてますし。その間にまた産休もあったりだとか。
石塚「はい、その間に3人目を産みまして。」
ーこの5年間のお二人の変化について話していただきたいんですが。
藤本「自分の中では5年前っていうのは、ターニングポイントだったなっていうのがあって。そのコロナのタイミングっていうのは、この8年間の中で一番成長できた時だったなと。色んな役割を掛け持ちして自分の立ち位置が一番わからなくなってた頃に、コロナでいったんリセットされた感覚があって。その時に、広報としてtamaki niimeの一点モノのマスク、「タマスク」のプレスリリースを打ったんですよ。それがすごくメディアの方にヒットして、取材対応とか一気に増えて。すごい数の取材をこなした実感があって。それまで自分の中で「広報ってなんやねん??」みたいなモヤモヤがあったんですけど。」
ーはい。
藤本「こんな風に話してみたらすごく記事の扱いが大きくなったなとか、こうゆうことをお伝えすると興味持ってもらえたな、とか自分の中で色んな実験が出来た、色んなことを一気に吸収出来たタイミングでもあったし、なんかそれがなかったら、この8年目、僕は自信を持っていられただろうか?とすごく思うんですよ。関わって下さった方々であるとか、社内の人たちに助けられて、そこですごく繋がってきたし鍛えられたなって感覚をずっと持ってて。だからすごく大変な時期だったんですけど、すごく成長できたし、その経験があって今も色んな企画を進められてるな、と思ったりしてます。」
ー大変な時期が逆に成長の糧になったと。
藤本「結論としては、僕、今も自分が広報だとは思えてないってゆうか。もっと色んなカタチで会社と関わったりだとか、tamaki niimeを伝えられるという部分で、自分の存在価値みたいなものを今は持ってるから、広報という役割ももちろん頭の中にはあるんだけど、自分としては、もっと出来ることがあるはずだと思ってるし、その言葉に限定されたくはないという想いもあるんですよ。」
ー藤本さんのお話を聞いて感じたのは、広報であるとかの肩書きじゃなくって、「藤本隆太」っていうポジションを確立されるこれまでだったのかなと思えます。石塚さんには、産休なり育児休暇を取りながら仕事を続けてこられたこの5年間を振り返っていただきたいのですが。
石塚「今一番上の子が6歳なんですけど……当時社長も大変だったと思うんですよ。人が少ない中で休むって状況にもなったんですけど、生命(いのち)の誕生についてはすごく喜んでくれて。スタッフの社内結婚も初めてで産休・育休をしっかり取るってゆうのも初めてだったんですけど、最初は私も不安だったんですよ。私がやってることを誰に任せたらいいんだって。引き継げないまま私は出産に入ってしまったんですよね。で、その後も2人産むんですよね。子どもを産みたいって思える環境・産んでも働ける環境ってゆうのがすごく大きくて。」
ーそういう意味でもこの環境が…
石塚「最初私が想像してたのは、もう結婚したり子ども産んだら働けないんじゃないか?と。そこはすごく社長も寛容だし、出来る仕事をしっかりやれることがすごく嬉しくて。今は昔と何が違うかっていうと、任せられるスタッフがすごく増えてきてるし、共有出来ることがすごく嬉しい。ひとりでやってひとりで悶々と悩んでいたことが、今は出来る人が増えてきてる分相談も出来るし、任せられるし、助けてもらってるし、もしその子が大変な時は私も替われるし、そんな風に皆んなと仕事出来てることがすごく嬉しくて。それがあるから私は安心して産めたのかなと思うんですよね。ほしいからといって授かれるものではないので、そんな環境が子どもと仕事がある生活を恵んでくれたのかな、というのはすごく感じます。」
ーなるほど…。
石塚「tamaki niimeを休んで現場から離れる時期はあったんですけど、働いているスタッフたちが近くにいたから、会社の様子を聞きながら悩みも聞きながら、という風に過ごしてたから、tamaki niimeと切り離されたとは全然思ってなくて。その繋がりがまた戻ってくるきっかけというか。皆んなで助け合えば、物理的に出来ないことはない。ホントに面白い、今それを感じながら働いてますね。」
〈後編に続く〉
書き人越川誠司
Original Japanese text by Seiji Koshikawa.
English translation by Adam & Michiko Whipple.

